牛や鶏の細胞から肉を作れるなら、人間の細胞から「食べられる肉」を作ることも理屈の上では考えられる。実際、この発想はすでにアートだけでなく応用倫理学の研究対象となり、「本人が同意して提供した細胞なら食べてもよいのか」「有名人の肉に商品価値がついたらどうなるのか」といった議論が行われている。
有名人を食べる――バイトラボの「セレブのサラミ」
培養肉が注目される以前から、バイオアーティストたちは「動物を殺さずに肉だけを作る」という発想を作品にしていた。オロン・カッツとイオナット・ズールは2003年の「身体から切り離された料理(Disembodied Cuisine)」で、カエルの細胞から小さな筋肉組織を培養して調理した。2014年の『培養肉料理本(The In Vitro Meat Cookbook)』でも、自分自身を含むさまざまな生物の細胞を食材にする未来が描かれている。こうした試みの延長で、人間をより直接的に「食材」として扱ったのがバイトラボ(BiteLabs)だった。
2014年、バイトラボは、有名人から採取した筋肉細胞を培養し、高級サラミを作るという構想を発表した。候補として挙げられたのはジェニファー・ローレンス、カニエ・ウェスト、ジェームズ・フランコ、エレン・デジェネレスらである。構想は単なる「人肉ソーセージ」という冗談ではなく、生検で少量の筋肉を採取し、細胞を分離して培養し、増やした組織をほかの肉や脂肪、香辛料と混ぜてサラミにするという工程まで示されていた。ジェニファー・ローレンス版にはウサギ肉や豚肉、蜂蜜、オレンジの皮、ショウガを合わせるなど、有名人ごとに異なる味まで設定されていた。
実際に本人たちの細胞が提供されたわけではなく、商品も作られていない。バイトラボは培養肉企業というより、生命倫理やセレブ文化を題材にしたアート、あるいは風刺的なプロジェクトと考えるのが妥当である。それでも、この発想は培養人肉特有の問題を分かりやすく示していた。有名人本人が同意して細胞を提供し、その人を傷つけることなく大量の肉を作った場合、それを食べる行為の何が問題なのか。一方で、有名人の細胞そのものに市場価値が生まれれば、本人の同意を得ない細胞の採取や売買も起こりうる。「人を食べる」という古い問題が、「人間の細胞を商品として所有する」という新しい問題へ変わっていくのである。
自分自身を育てて食べる「ウロボロス・ステーキ」
この問題をさらに単純な形にしたのが、オルカン・テルハン、アンドリュー・ペリング、グレース・ナイトが2019年に制作した「ウロボロス・ステーキ(Ouroboros Steak)」である。フィラデルフィア美術館の展覧会「異なる未来のためのデザイン(Designs for Different Futures)」のために作られ、後にロンドンのデザイン・ミュージアムでも展示された。
作品の設定は「自分自身の細胞から小さなステーキを育てる家庭用キット」である。利用者は口の内側から自分の細胞を採取し、それを増やして肉のような組織を作る。細胞を育てるための栄養源には、廃棄される期限切れの献血由来血液から作ったヒト血清を使うという設定だった。名前の「ウロボロス」は、自分の尾を食べる蛇の図像に由来する。人を殺すことも、大きく傷つけることもなく、自分から採ったわずかな細胞を増やし、それを自分で食べる。従来の意味では人肉食でありながら、そこには犠牲者が存在しない。
この作品には、当時の培養肉に対する批判も込められていた。細胞培養ではウシ胎児血清など動物由来の成分が広く使われてきたため、「動物を殺さない肉」と呼びながら、培養工程では動物に依存している場合があった。そこで制作者たちは、動物由来の材料まで完全に排除しようとすれば、最後には人間自身の細胞と人間由来の培養液で「自分を育てて食べる」という発想に行き着くのではないかと皮肉ったのである。現在では無血清培地などの開発も進んでいるため、この作品が現在の培養肉産業全体を説明しているわけではない。それでも、自分の細胞から作った肉は「自分の身体」なのか、それとも単なる食品なのか、本人が自分で食べるならそれを禁じる理由はあるのか、という問いは残る。
「誰も殺さない人肉食」なら何が悪いのか
この問題を応用倫理学の立場から論じたのが、オックスフォード大学のG・オーウェン・シェーファーとジュリアン・サヴレスキュである。2014年の論文「培養肉を生産することの倫理(The Ethics of Producing In Vitro Meat)」では、培養肉によって人間の肉を作れる可能性も取り上げ、通常の人肉食の何が問題なのかを一つずつ分けて考えている。
たとえば、健康な成人が少量の筋肉を自発的に提供したとする。その人はその後も普通に生活し、採取した細胞だけを体外で増殖させて大量の肉を作る。この場合、誰も殺されず、遺体も傷つけられない。従来の人肉食に伴う大きな問題の多くが最初から存在しない。ここで残るのは、「人間の組織を食べる行為そのものが悪いのか」という問題である。人間の細胞や組織を本人の同意を得て採取し、医療目的で培養すること自体は広く行われている。同じ細胞が食品になった瞬間に許されなくなるなら、その理由を別に示す必要がある。
さらに問題になるのが「同意」である。論文では、本人の同意を得て殺害し、その肉を食べたとされたドイツのアルミン・マイヴェス事件にも触れている。本人が同意していたとしても、人を殺す行為そのものには重大な問題が残る。しかし培養肉なら、細胞提供者を殺す必要がない。つまり、「同意した人を殺して食べること」と「同意した人から少量の細胞を採り、それを培養して食べること」は同じではない。後者では、細胞提供について十分な説明を受けたうえで本人が同意しているかどうかが、より大きな問題になる。
哲学者ジョシュ・ミルバーンも2016年の論文で、人肉食という言葉には性質の異なる行為がまとめられていると指摘した。人を殺して食べる場合、すでに死亡した人の身体を食べる場合、医療上の理由で切除された身体の一部を本人の同意を得て食べる場合では、倫理上の問題は同じではない。培養人肉の場合、その肉は誰かの死体だったことさえない。ミルバーンは、このようなものを「被害者のいないカニバリズム」として考え、食べる行為そのものを一律に悪とみなす理由は弱いと論じている。
この議論を動物倫理から見ると、さらに奇妙な逆転が起きる。動物を殺したくないから培養牛肉や培養鶏肉を選ぶのであれば、誰も殺さず、本人が同意した培養人肉だけを「人間だから」という理由で拒むことには、別の説明が必要になる。もちろん、これは人間の肉を食べるべきだという主張ではない。何を理由に許可し、何を理由に禁止するのかを明らかにするための思考実験である。
「セレブの肉」が本当の商品になったら
これとは反対に、培養人肉が社会へ広がった後の問題を重視したのが、デルフト工科大学のマルコ・ロカルノである。2023年の『フード・エシックス(Food Ethics)』掲載論文では、「健康上の危険がなく、成人の提供者が完全に同意している」という、培養人肉に最も有利な条件を設定したうえで議論している。それでもロカルノは、商品として流通し始めれば別の問題が起こりうると考える。
一つは、人間の細胞そのものに市場価値が生まれることである。有名俳優、歌手、スポーツ選手などの肉を食べたい人が現れれば、その人物の細胞が高値で取引される可能性がある。バイトラボが冗談として描いた「セレブのサラミ」が、本人の同意を失った瞬間に違法な生体試料の売買へ変わるかもしれない。また、人間の細胞にはDNAが含まれているため、培養肉を購入することが、その人物の遺伝情報を含む生体試料を手に入れることにもなりうる。食品としての所有権だけでなく、遺伝情報やプライバシーの問題も生じる。
さらにロカルノは、誰の肉に高い値段が付くのかという問題も挙げる。年齢、性別、身体的特徴、民族、社会的地位などによって人気や価格が変われば、人間そのものを商品価値で分類する市場が成立しかねない。また、培養人肉への抵抗が薄れることで、実際の人間の肉への関心まで強まる可能性も指摘している。ただし、培養人肉市場そのものが存在していないため、これは実証研究で確認された現象ではなく、将来起こりうる社会的影響を考えるための仮説である。
培養人肉をめぐる議論は、すでに一部の哲学者だけの思考実験でもなくなっている。EUの研究プロジェクト「FEASTS」が2025年に公表した培養肉・培養魚介類の倫理影響評価でも、「培養人肉(Cultured Human Meat)」が独立した論点として扱われた。培養された人間の細胞を食品としてどう位置づけるのかという問題は、将来の培養肉を考えるうえで正式な研究課題の一つになり始めている。
人間由来の肉に科学的な危険はあるのか――プリオン病とクールー
培養人肉を食品として考える場合、倫理とは別に安全性の問題もある。人間由来の細胞には、提供者が持つ感染性因子が含まれる可能性があり、培養中の微生物汚染なども管理する必要がある。ただし、こうした問題の多くは通常の細胞培養食品にも共通する。人間由来の肉で特に重要なのは、過去の人肉食と明確な関係が確認されているプリオン病である。
代表例が、パプアニューギニアのフォレ族などで流行したクールーである。20世紀半ばまで一部の地域では、死者を弔う儀礼として遺体を食べる習慣があり、とくに脳や内臓などを口にする機会の多かった女性や子どもにクールーが多く発生した。発症すると歩行や姿勢を保つことが難しくなり、震えや運動失調が進行して死亡する。後の研究で、感染者の組織に含まれていた異常プリオンが摂取によって人から人へ伝わったことが分かり、儀礼的な人肉食が途絶れると患者も減少した。ただし潜伏期間が非常に長いため、習慣がなくなってから数十年後にも発症例が確認されている。
クールーと、筋肉細胞から作る培養人肉をそのまま同じものと考えることはできない。感染者の脳を含む遺体を食べる場合と、管理された細胞から肉を培養する場合では条件が大きく異なる。それでもクールーは、人間の組織を食べることでプリオン病が人から人へ伝わりうることを実際に示した例として重要である。
したがって、培養人肉がプリオン病を引き起こしやすいと断定することはできないが、人間由来だから安全性の確認が不要になるわけでもない。培養技術によって「人を殺さず人肉を作る」という倫理上の問題の一部は避けられても、その肉を食品として安全に食べられるかどうかは別の問題として検証する必要がある。

出典
Oron Catts, Ionat Zurr — Disembodied Cuisine
The Tissue Culture & Art Project, 2003
https://tcaproject.net/portfolio/disembodied-cuisine/Jenn Harris — Ellen DeGeneres salami? One company’s quest to make meat from celebrity tissue samples
Los Angeles Times, 2014
https://www.latimes.com/food/dailydish/la-dd-bitelabs-make-salami-celebrity-tissue-samples-20140304-story.htmlBrian Merchant — The Guy Who Wants to Sell Lab-Grown Salami Made of Kanye West Is “100% Serious”
VICE, 2014
https://www.vice.com/en/article/the-guy-who-want-to-sell-you-salami-made-out-of-james-franco-are-100-serious/Orkan Telhan — Ouroboros Steak
Orkan Telhan
https://www.orkantelhan.com/ouroboros-steak/Design Museum — Ouroboros Steak
Design Museum, 2020
https://beta.designmuseum.org/exhibitions/beazley-designs-of-the-year/product/ouroboros-steakG. Owen Schaefer, Julian Savulescu — The Ethics of Producing In Vitro Meat
Journal of Applied Philosophy, 2014
https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC4419201/Josh Milburn — Chewing over in vitro meat: Animal ethics, cannibalism and social progress
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https://repository.lboro.ac.uk/articles/journal_contribution/Chewing_over_in_vitro_meat_Animal_ethics_cannibalism_and_social_progress/19434557Marco Locarno — Cultured Human Meat Acceptability: From Inviolability of Human Body to Prevention of Induced Human Meat Craving
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https://link.springer.com/article/10.1007/s41055-023-00121-xFEASTS — Ethical Impact Assessment of Cultured Meat and Seafood
Horizon Europe / FEASTS, 2025
https://feasts-innovation.eu/wp-content/uploads/2025/06/D-4.3-Ethical-Impact-Assessment.pdfFood and Agriculture Organization of the United Nations, World Health Organization — Food safety aspects of cell-based food
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https://www.who.int/publications/i/item/9789240070943Alexander H. Peden et al. — Detection and Localization of PrPSc in the Skeletal Muscle of Patients with Variant, Iatrogenic, and Sporadic Forms of Creutzfeldt-Jakob Disease
The American Journal of Pathology, 2006
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/16507908/P. P. Liberski — Kuru: Genes, Cannibals and Neuropathology
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